四、谷間のむらの仏たち


  白い雪の下に

 五十八才で亡くなったが、村のしゅうから「たけあんに」と呼ばれ、だれにも愛された名物男
がいました。

「たけあんに」は生まれつきの身障者で、一人前に世を送ることのできないとてもかわいそうな
人でした。
しかしこの「たけあんに」ほど村のしゅうにいろいろの思い出をのこして、あの世にいった人は
珍らしいと思います。

「たけあんに」は、からだも頭も満足ではありませんから、普通の人のように仕事はできません。
ですから毎日、家を出て村中をてくてくと歩いて回ります。
やさしくしてくれる家はちゃんと知っていて、そこによったり、森や川べりにいて、空の雲やと
んでゆく鳥を眺めたりしていました。
また気が向くと、好きななにわ節をうなったりしていました。
「たけあんに」はとても行儀がよくて、どこへ行っても、ものをねだるようなことはしません

した。
何かもらえば必ずお礼も言うし、いつもニコニコしていました。
「たけあんに」は人をいじめたこともないし、にくんだこともなく、まるで赤ん坊のような美し
い心を持っていました。

「たけあんに」は、季節のうつりかわりにも敏感でした。
夏の暑いうだるような日は、いつも八幡神社の森のなかにおりました。
「たけあんに」は村のうちをぐるぐる歩き回るので、どこが一番涼しいかよく知っていたからです。
また冬になると、あたたかいところも知っています。
み園の日だまりの中で、「たけあんに」が日なたぼっこをしている姿をよく見かけたものです。

「たけあんに」は、生きものも好きでした。
そのころ氏神さまの森に、バンドリがすみついていました。
バンドリは大きな木のうろっぽにいて、木の根もとをコンコンとたたくと、ちょこんと首を出し
ます。このバンドリを村のしゅうは「キヨロ」と呼びました。
「たけあんに」はよくここに来て、「キヨロ」と仲よくあそびました。

ときには「キヨロ」に話しかけたりしました。

 この「たけあんに」にも、きらいなものがいくつかありました。
一番きらいなものは、カメラで写真をとられることです。
カメラを向けると、一目散に逃げて行きます。
ですから、「たけあんに」の生前の写真は数えるほどしかありません。
もう一つは、人に送ってもらうことでした。
「たけあんに」は、気にいった家だと夜おそくまで遊んでゆくこともあります。
あんまりおそくまでいるときは、家で心配しますので、そのときは
「なあたけあんに、おそくなったで送ってやるぞ。」
と言うと、泣きそうな顔をして、
「いい。」
と言って手を振ります。

 みんながおどけて立ち上がると、それこそくもの子を散らすようにそそくさと逃げて行きました。
どうしてあんなに「たけあんに」が送られることをいやがったのか、その理由はわかりませんが、
いつかだれかがそのことで「たけあんに」の心にいやな思いをさせたに違いありません。

 村のしゅうに愛された「たけあんに」も、ついに寿命には勝てず、五十八才の生涯を終わりまし
た。
「たけあんに」のおとむらいの日は、朝から雪が舞っている寒い日でした。
庭につもったまっ白な雪、みにくい人間の世のあかにもよごれず、「たけあんに」は赤ん坊のよう
なきれいな心のままで、静かにふるさとの土にかえってゆきました。

 

 要おじいの一生

遠山の厳しい風土に育った昔の人たちは、心があたたかい反面、たくましい野性も持っておりま
した。これからお話しする「要おじい」もそんな男でした。

「要おじい」はたったひとりで柿の木の下の小屋に住んでいました。
若いころは本谷川の奥に入って、アメノウオやイワナを釣って暮らしをたてたこともあります。
でも年をとってからは、山に入って炭やきをしました。長い間山におりましたが、炭やきの仕事も
きつくなり、「要おじい」も山をおりる日がきました。
それは戦争中のことでした。

さとにおりてきた「要おじい」は、生活のために、にわとりを飼うことにしました。
とり小屋の入口には、新聞紙に「うみたてのタマゴあり(マス)」と書いて張ってありました。
「要おじい」は、たまごを買いにきた村のしゅうに、いつもこんなことを言います。

「おらのたまごはな、ほかのうちのもんより高いぞ。それを承知なら売ってやらんでもないがョ。」
戦後のことで、くいもののとぼしいころでした。
たしかに「要おじい」のたまごはほかのうちより高かったが、土間飼いなので、たまごの黄味も多く
質が良いという評判でした。
たまごはよく売れたが、近所の人には「要おじい」はケチンボだと言われました。

たとえば、にわとりのえさでもそうですが、お金は一銭も出してはおりません。
どうするかと言いますと、おじいは近所の子どもを集めて呼びかけるのです。

「おまえとう、いい子だでョ。おらのたのみをきいとくれ。ねずみでもへびでもひきた(かえる)でも、
おまえとうがとったらなァ、おらんとこへもってきてくりょョ。おら、にわとりのえさにしたいでョ。」

「そうか、にわとりのえさにするだか。おじいは年をとったで、へびもとれんでな。おらきっととれた
ら何でももってくる。」

「おまえとう、ほんとにたのむぞ。生ものをとりが食うと、とりの奴よくたまごをうんでくれるでョ。」

そんなわけで、子どもたちはねずみとかへびをとると、みんな「要おじい」の小屋に持ち込んできま
した。
「要おじい」はそれを見ると、ひげづらをくしゃくしやにして、
「おお、持ってきてくれたのか。こりゃごっそ、ごっそ。」と喜ぶのです。

「要おじい」もただというわけにはゆかず、子どもたちにそっといものほしたのをにぎらせます。
子どもたちはそれがたのしみで、次から次とねずみやへびを持ってくるのです。

だが、驚いたことが一つありました。
たしかに、へびやねずみもこまかくきざんで、にわとりにもやっていましたが、いいところは「要おじい」
が自分で食べていたのです。
 ある日、「要おじい」は近所の人に、こんなことを言ったそうです。

「おまえもいっぺん食ってみよよ。うまいにもなにんにもよ。そりゃいっぺん食ったらこたえられんに。
あぶらがじゅうじゅう出てよ。おらほんとにどうでどうで、身どこになるような気がするだよ……………。」

これにはさすが、その人もあいた口がふさがらなかったそうです。

また「要おじい」は、村のなかを流れている用水じりに一日に一回はやってきます。
これは、上の方から流れてきたごはんのつぶとか野菜くずを集めて、にわとりのえさにするためです。
用水じりには、流れてきたものが、うまくたまるように、こまかいあみが張ってあります。
これをすくいあげて、にわとり小屋に持って帰るのです。

また「要おじい」は、いつも腰にキンチャクをつけておりました。
そのなかには、ていねいにしわをのばしたお札が入っています。
ほかに財産のない「要おじい」にとっては、これはいのちの次に大切なものでした。
何も知らない他人から見ると、どうして「要おじい」がなりふりかまわずお金をためるのか、その理由がわ
かりませんでした。
だが、「要おじい」にはどうしてもお金をためなければならないことがあったのです。


「要おじい」には娘がひとりありましたが、胸を病んで亡くなっています。
そのときかなりの借金をしましたが、どうしても返すことができず、借金のかたに畑を手ばなしました。
その畑のすみにはお墓があって、娘も亡くなった妻も眠っています。
ですから、何としてもその畑だけは自分の手に買いもどしたかったのです。
そのために他人がどう言おうが、要おじいはなりふりかまわずお金をためていたのです。
『おれの目の黒いうちに、何としてもあの畑を買いもどす』
それが「要おじい」の生涯の願いだったのです。

だが、強気の「要おじい」も、よる年なみにはついに勝つことができませんでした。
ときおり柿の木の下の小屋から、お念仏をとなえる声がきこえるようになりました。
めし茶わんをチーン、チーンとたたきながら、ひとりでお念仏をとなえる日が多くなってきました。
すでに自分の死期をさとっていたのか、「要おじい」はその年の暮、ぽっくり死んでしまいました。
そしてその息を引きとるとき、「要おじい」はまくらべに集まった近所の人たちに、
「おらあまだ死ねんだョ。おらあまだ死にたくないだ。」
と手を合わせ、静かに目をとじました。

 

  村の名物りょう師

「石井のおじい」は、百姓が本業でしたが、村でたったひとりのりょう師でした。
ところがこのおじいは、鉄砲がへたくそで、りょう師は長くやっていたが、これという大物をとったこと
はあまり聞いたことがありませんでした。
けものをとらないりょう師、それが村のしゅうの語りぐさでした。

おじいは、たしかにりょうはへたでしたが、ただおじいにはもう一つの大きな役目がありました。
昔は軍隊がありましたから、村の若者が兵隊にいくときは、その出発の朝必ず祝砲をうつことになってい
ました。
ほかの人は鉄砲をもっていないので、どうしても「石井のおじい」のお世話になるわけです。
いくたりもの兵隊が、このおじいの祝砲におくられて村を出て行きました。
戦争が激しくなるにつれ、その数は増えました。なかには戦死
をした人たちもたくさんおります。
そんなわけで、とりやけものをうつより、その方がおじいの大切な仕事だったのです。

また「石井のおじい」は、村の顔役でした。
どちらかというと、たにごとも世話ずきで、役をやることは好きなほうでした。
ですから村会議員をはじめ、村のいろいろな役職をつとめました。
どうしても役職をやると、祝辞をのべる機会が多くなります。

「石井のおじい」の祝辞が、これはまた有名だったのです。
祝辞には人それぞれの特徴があるものですが、「石井のおじい」の祝辞は独得の味わいを持っていました。
村のしゅうは、石井のおじいの『ござりまする祝辞』と呼びました。
たとえば、学校の入学式などで祝辞をたのまれますと、
「エー楼花らんまんの候、本校の入学式におまねき
を賜わり、ここに祝辞を申しあげますることは、誠に光栄の致りでございまする。」

 まあこんな風に、『ござりまする』と言ういまでは聞き慣れない言葉が、祝辞のなかにいくつか出てきます。
物好きな人がいて、それを数えてみたら、一つの祝辞のなかでなんと『ござりまする』という言葉が五回も
出てきたそうです。
「石井のおじい」はとっくに亡くなりましたが、いまでもこの『ござりまする祝辞』は、村のしゅうの語り
ぐさとして、みんなの心に生き続けております。 

世のなかが進歩するにつれ、人間の心も大きく変わってゆきます。
それはあたり前のことですが、昔の人たちは学問はあまりなかったが、人間として心のあたたかい人が多か
ったように思います。

人間はいつかは死ぬわけですが、いつの時代でも、精いっぱい生きることの大切さを改めて教えられます。


遠山さまの伝説